|
Article on other languages:
|
シベリア連邦管区(濃い赤)と広義のシベリア(薄い赤)
シベリア(Siberia, ロシア語:Сибирьスィビーリ)は、ロシア連邦領内ウラル山脈分水嶺以東の、北アジアおよび東アジア地域の呼称。 本来、極東分水嶺より東の日本海・オホーツク海など沿岸地域は含まないが、広義には含めることもある。ロシア連邦所属の自治領・自治共和国は存在するが、独立国家は存在しない。シビル、シビーリ、英語ではサイベリアとも言う。また、方角を色で表すルーシ・ロシアの習慣から、かつては緑ルーシ、緑ロシアとも呼ばれた。また、漢字表記で西比利亜とも書く。かつては日本語でシベリヤという表記も多くみられた。シベリアの名称はシビル・ハン国に由来する。 主な都市として、西から、エカテリンブルク、オムスク、ノヴォシビルスク、クラスノヤルスク、イルクーツクがある。広義のシベリアは、さらにハバロフスク、ウラジオストクを含む。人口最大の都市はノヴォシビルスク。
行政区ウラル連邦管区、シベリア連邦管区、極東連邦管区に分かれる。ロシアを構成する7つの連邦管区のうち、3つが(広義の)シベリアにある。 地理・自然緯度が高く、冬季の気温は非常に低い。早いところでは8月下旬に降雪を見る。オイミャコンでは-73度という人間が居住可能な場所における最低気温を記録している。一方、夏季は30度以上まで気温が上昇することもあり、年間の温度差は極端に大きい。冬の日本列島の天気を支配するシベリア寒気団は、極寒気がシベリアに蓄積され、そこから吹き出すと考えられている。 植生は、タイガと呼ばれる針葉樹を中心とした広大な森林地帯が大半を占める。より緯度の高い地域は地衣類を中心としたツンドラと呼ばれる植生であり、樹木は生育しなくなる。地下には厚い永久凍土層が広範囲にわたって存在する。鉱物資源は非常に豊富で、資源の宝庫とされる。しかし近年、開発の行き過ぎや地球温暖化などによる環境破壊が問題になっている。 絶滅の恐れのあるアムールトラをはじめとして、多くの野生生物が生息している。 大河は西から順に、オビ川・エニセイ川・レナ川の3つがあり、いずれも北に流れている。夏期は河川運輸が活発だが、冬季には凍結し、トラック輸送に利用される。 歴史シベリアには旧石器時代から人が住んでいた。当時生きていたマンモスの狩猟も行っていたと考えられている。また新モンゴロイドはシベリア周辺で当時の特に寒冷な気候に適応した人種であるとの考えが有力である。 青銅器時代になると西方に起源するとみられるアファナシエヴォ文化などがシベリア南部でも栄えて牧畜・農耕が盛んになり、またシベリア独自の文化も生まれた。その後南部では遊牧的な生活様式に移行したとみられ、特に西方のスキタイ騎馬文化の圧倒的な影響のもとにスキト=シベリア文化(パジリク文化やタガール文化)が生まれた。 中国の文献によれば、漢代に丁零がシベリア南部からモンゴルあたりに栄えたとされ、これはテュルク系民族と考えられている。6世紀には同じテュルク系の突厥がこのあたりに建国し、以後テュルク系遊牧民族は西方に広がったが、現在でもシベリアにはサハ人などテュルク系民族が多く住む。一方シベリア東部ではトゥングース系民族が、バイカル湖周辺ではモンゴル系民族(ブリヤート人)が広がった。古シベリア(古アジア)諸族と総称される人々も、今日ではごく少数にすぎないが、古くははるかに広い範囲に住んでいたと考えられている。 中世にはシベリア南部がモンゴル帝国、次いで元朝やジョチ・ウルスに支配された。15世紀には、ジョチ・ウルスの流れを汲みテュルク系民族を中心とするシビル・ハン国がシベリア中央部のオビ川流域周辺を支配し半遊牧国家を形成した。 最初にロシアからシベリアに侵入したのは正規ロシア軍ではなく、ストロガノフという商人の私兵である。当時すでに枯渇していたウラル以西の毛皮資源に替わる、豊富な毛皮資源を求めたためだった。そしてシビル・ハン国が1572年に毛皮の朝貢を拒否したことでロシアのシベリア侵攻は決定的となった。この時のロシア人私兵はコサックと呼ばれ、これらを率いたコサックの首長イェルマークによりシベリア征服が進められた。イェルマークは1578年10月に東進を開始し、シビル・ハン国を攻撃、イェルマーク自身は途中戦死するものの、ついに1598年シビル・ハン国は滅亡する。その後ロシア人は東進を続け1636年にはオホーツク海へ至り、シベリア全土を征服した。これ以後この地はロシア人の植民地となる。 その結果、領土が近接することとなった清とはたびたび武力衝突した。ロシア帝国はコサック兵ではなく正規ロシア兵を送りアルバジン、ネルチンスクの両要塞を建設するが、清の康熙帝は対抗して1685年に武力をもってアルバジンを破壊。事態を重く見たロシア帝国は1689年(康熙28年)に清とネルチンスク条約を締結し国境線を外興安嶺に制定した。 19世紀になり、ロシア帝国は清の弱体化に乗じ、1858年のアイグン条約にてアムール川北岸の地、1860年の北京条約にてウスリー川東側の沿海州の地を清より獲得した。 1917年に起きたロシア革命後、一時極東共和国や沿海州共和国などの諸政府が成立した。しかしいずれも長続きせず、ソビエト連邦成立の過程で消滅した。 なお、ロシア革命後の1918年から1922年にかけ、日本はアメリカやイギリスなどと共にシベリアに兵士を送っている。いわゆるシベリア出兵である。また、第二次世界大戦のソビエト参戦後、ソ連軍に捕らえられた日本兵がシベリア抑留されている。 20世紀に至りアフリカ・アジア諸国の植民地は次々と独立したが、シベリアの先住民族や植民者による独立国家は建設されず、ソビエト崩壊の際もロシア連邦内にとどまった。そのため、いまだ民族独立国家をもたない世界最大の植民地との見方もでき、一部にはシベリアの民族独立を訴える人もいる。 ただし、経済的に自立が困難な地域が多いこと、そもそも現在では先住民族よりロシア人の人口比率が高い地域も多いことなどから、チェチェン共和国などのように独立要求が先鋭化している地域はない。 シベリア出身の人物
関連項目
|
This article is from Wikipedia. All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.