トクト

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トクト(托克托・脱脱、1314年 - 1355年)はの宰相。漢名のは大用。メルキト族の出身で、父はバヤンの弟であるマジャルダイ


目次

生涯

二十四史
  書名 作者 巻数
1 史記 前漢司馬遷 130
2 漢書 後漢班固 100
3 後漢書 范曄 120
4 三国志 陳寿 65
5 晋書 房玄齢 130
6 宋書 南斉沈約 100
7 南斉書 蕭子顕 59
8 梁書 姚思廉 56
9 陳書 姚思廉 36
10 魏書 北斉魏収 114
11 北斉書 李百薬 50
12 周書 令狐徳棻 50
13 隋書 魏徴長孫無忌 85
14 南史 李延寿 80
15 北史 李延寿 100
16 旧唐書 後晋劉昫 200
17 新唐書 北宋欧陽修宋祁 225
18 旧五代史 北宋薛居正 150
19 新五代史 北宋欧陽修 74
20 宋史 トクト(脱脱)他 496
21 遼史 トクト(脱脱)他 116
22 金史 トクト(脱脱)他 135
23 元史 宋濂 210
24 明史 張廷玉 332

世に出るまで

元朝では1328年に起こった天暦の内乱により、キプチャク軍閥のエル・テムルが実権を握り、トク・テムルが傀儡皇帝に立てられた。しかし、トク・テムルと次代のイリンジバルが夭折し、1333年にはエル・テムルが病没したため、次第にキプチャク軍閥は実権を失い、代わって力を付けてきたメルキト族のバヤンにより、同年に元朝最後の皇帝トゴン・テムル(順帝)が立てられた。

政権を奪う

トクトは初め伯父バヤンの養子となり、1338年御史大夫に任じられた。しかしバヤンが専横を極めたため、1340年2月にトゴン・テムルと結びクーデターを起こし、バヤンを追放した。バヤンは左遷途中の翌年、病死する。

政治改革

1340年12月にはバヤンが廃した科挙が再開する。1341年、トクトの父マジャルタイが形式上の宰相となり、トクトが実権を握った[1]。10月にマジャルタイは職を辞し、トクトは中書右丞相となる。1341年には都総裁官に任ぜられ、1343年に『金史』を、1344年に『遼史』を、1345年に『宋史』を完成させる。

左遷と復帰

だが、1344年5月に父がトゴン・テムルによって甘粛に追放されると父親に従って辞職した。その5月、たまたま黄河が大規模な氾濫を起こすが、政変直後であり元朝は対策が遅れた。

父の死後にその冤罪が明らかになると、1349年には再び呼び戻され中書右丞相に復し、政権を授かった。トクトは早速、賈魯黄河の大改修を命じ、民心を回復させようとした。1350年、トクトは新しい紙幣『至正交鈔』の発行も行っている。

紅巾の乱への対応

しかし、大規模な土木工事は、かえって民衆に不満を与えた。白蓮教主の韓山童はこの不満を煽り、紅巾の乱のきっかけを作った[1]。韓山童は処刑されるが、各地で蜂起が発生した。

1351年8月、蜂起した芝麻李らが徐州を奪うと、トクトは1352年9月、兵10数万を率いて徐州を攻め、芝麻李を戦死させ、彭大趙均用を敗走させる[2]

1354年に再び紅巾の乱の鎮圧のための遠征に向かう。ところが張士誠討伐中にトゴン・テムルの寵臣ハマ(哈麻)の讒言を受けて[2]追放され、やがて雲南に護送中に反対派に毒殺された。トクト追放により遠征軍は崩壊し、また実力者を失った元朝政府も収拾が付かない状態となった。7年後に反対派が失脚すると名誉回復がされた。


参考文献

  1. ^ a b 檀上 寛、『明の太祖 朱元璋』白帝社、1994年
  2. ^ a b 呉晗著、堺屋太一訳注『超巨人・明の太祖朱元璋』、講談社文庫、1989年。

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