土岐頼康

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土岐 頼康(とき よりやす、文保2年(1318年) - 嘉慶元年/元中4年12月25日1388年2月3日))は南北朝時代の有力守護大名土岐頼清の六男。初代守護土岐頼貞の孫。官位は、従四位下昇殿大膳大夫

経歴

父頼清の陣没後、叔父頼遠とともに若くして各地を転戦して南朝方と戦った。康永元年(1342年)、土岐氏惣領の頼遠が光厳上皇に狼藉を働いたため処刑されると、惣領を継ぎ美濃守護となった。本拠を革手城に移し、美濃の豪族斎藤氏を服従させた。土岐氏一族が南朝と結んで反乱を起こすがこれを打ち破って美濃を平定している。

頼康は「桔梗一揆」と呼ばれる土岐氏一族の強力な武士団を有しており、観応の擾乱では将軍足利尊氏を常に支持して武功があり、その功績によって観応2年(1352年)に尾張守護職を与えられた。文和2年(1353年)、南朝方に攻められた足利義詮後光厳天皇を奉じて京都を脱出すると領国の揖斐郡小島に迎えている(「美濃行幸」)。文和3年(1354年)に評定衆に列する。延文3年(1358年)に尊氏が死去すると出家して善忠と号した。

延文5年(1360年)に伊勢守護職を与えられ、頼康は東海道の要衝3ヶ国の守護を兼ねて土岐氏の最盛期を築き上げた。文武に優れ勅撰和歌集に多くの和歌を残している。

頼康は尊氏以来の宿老として幕政に参与して重きをなした。三代将軍義満のとき管領細川頼之と対立して勝手に本国へ帰国し、将軍義満から追討令を受けるが謝罪して許され政権に復帰している。康暦元年(1379年)の康暦の政変において斯波義将と共謀し、義満に進言して政敵の細川頼之を追放させた。

嘉慶元年(1387年)に頼康が死ぬと、養子の康行が惣領を継いだが、将軍権力の強化を図る義満は勢力の強すぎる土岐氏一族の内紛を画策し、康行は挙兵に追い込まれ、幕府軍の追討を受けて没落した(土岐康行の乱)。

甥の頼忠が美濃守護に任じられるが、土岐氏の力は大きく減じ、再び美濃一国の守護に逆戻りしてしまった。

先代:
土岐頼遠
美濃土岐氏歴代当主
1342~1388
次代:
土岐康行

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