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宮古島(みやこじま)は、沖縄本島から南西に約300km、東経125度、北緯24度に位置し、太平洋と東シナ海の間にある島。南西諸島西部の島嶼群宮古列島に属し、先島諸島の一部を成している。宮古列島は宮古諸島とも言う。 または同島に加え伊良部島、下地島、池間島、来間島、大神島を含めた宮古島市のことをさす(宮古島市の項を参照。NHKのニューステロップで「宮古島」と表記する場合はこれをさすことがある)。
名前の由来「宮古島」という名称は、「ミャーク」もしくは「ミヤク」という音に当てられた言葉のようである。 ミヤコの名称が歴史上初めて登場するのは、中国の元時代(13世紀)の歴史書『元史』の『温州府誌』からであり、「婆羅公管下密牙古人(ブラコウカンカミヤコジン)」が温州に漂着したと記述されている。「婆羅公(ブラコウ)」とは、城辺字保良を統治していた豪族のことだといわれている。 600年以上の歴史を持つ池間島(字池間・字前里)・狩俣地区(字狩俣)に残されたアヤグ(宮古方言での詩歌のこと)によると、ミヤコ(ミャーク)とは「人(自分自身)の住んでいる所(地域・集落)」という意味である。この場合、言葉の由来は言葉の音によって「ミ(自分)」「ヤ(住んでいる)」「ク(場所・村)」の意味に分けられる。 16世紀頃から、宮古島に住んでいた人々は、自らの住んでいるところをミャークまたはピサラ(平良)と呼ぶようになり、一時期はピサラ島とも呼んだ。しかし、ピサラ(平良)が荷川取・西仲宗根・東仲宗根・西里・下里の5ヵ村(字)を指す名称として定着するようになると、再び島全体がミャークという名称で呼ばれるようになった。 ちなみに、ミャークの漢字表記は「密牙古」「麻姑」「宮古」と時代によって様々であった。 地理直角三角形のような形をした島で、北を上にした普段地図で見慣れた形だと分かりにくいが、旧下地町方(来間島方)を下にすると「猛禽類がはばたく姿」に見える。南東端に東平安名岬が、北西端に西平安名岬がある。島の北西には池間島があり、北には大神島がある。また、島の西には伊良部島、下地島が、南西には来間島が浮かんでいる。池間島及び来間島とは、橋で結ばれている(池間大橋1,425m、来間大橋1,690m)。また、沖合5kmにある伊良部島への架橋も着工している(2012年度開通予定、本橋部分3,540m)。 島尻層泥岩と呼ばれる粘土層を基盤としたサンゴ礁が隆起して出来上がった琉球石灰岩からなる台地の島で、全般に平坦。最高地点のンキャフス嶺・ナカオ嶺でも標高115mである。川らしい川はないが、地下水が豊富である。 島の北側の海域には、「八重干瀬(ヤビジ、ヤエビシ)」と呼ばれる、宮古島の面積の三分の一に及ぶ浅瀬が広がっており、珊瑚が群生する漁場・ダイビングスポットとなっている。また干潮時には海面から露出し広大な島のようになることがある。 八重干瀬沖には台風の影響でごく稀にバラス島(珊瑚の死骸が寄せ集められ島になる)が出現する時がある。 天気予報で「宮古島」という場合と「宮古島地方」という場合があるがその違いは、宮古島地方は宮古諸島全域のことを指し、宮古島の場合は宮古島地方のうち、多良間村を除く地域である。 自然琉球列島の面積の大きい島の中では、唯一のハブが生息しない島である。これは、標高が低いため、過去の海進の時に水没し、それ以来は他の島と陸続きになる機会がなかったためとされる。しかしながら、ミヤコカナヘビやミヤコサワガニなどの固有の陸生・陸水動物が分布することや、絶滅した大型のシカ類であるミヤコノロジカの化石が発掘されることから、本当に水没したかどうか疑問がもたれている[1][2]。 島全体が低い丘陵地であり、森林は海岸性のものがわずかにある程度。固有種は少ないが、カタツムリや植物がいくつか知られている。 宮古島の名を持つ生物に以下のようなものがある。
過去の海進の時に珊瑚礁が発達し、後の海退の時に珊瑚礁が隆起してできた島で、地下水が豊富である。宮古島は、上から順に赤土の層・石灰岩の層(かつて珊瑚礁だった)・粘土の層に分かれている。赤土の層と石灰岩の層は、水を通しやすいため、宮古島の地表には川らしい川が存在しない。粘土の層は、水を通しにくいため石灰岩層と粘土層の間に地下水が川のように流れている。この地下水流をせき止めた福里ダムや砂川ダムなどの地下ダムがある。 島内の市町村交通
放送
文化宮古島には、日本本土や沖縄本島とも異なる独自の文化が多く残っている。 神話宮古島が島の形もなしていない太古、天帝(あめのてだ)が天の岩柱の端を折り、弥久美神(やぐみのかみ)に授け「下界の風よからんところに島を造りなせ」と命じ天の夜虹橋(あめのゆのづはず)から下界の大海原に岩柱を投げさせ固まったのが今の宮古島となった。天帝は次いで赤土を下し古意角(こいつの)神に「下界に降りて人の世を建てて守護神となれ」と命じたが古意角が「我に足らざる片つからだを賜え」天帝「汝六根五躰を備う、また何の不足かあらん」古意角「すべて陽あれば陰あり、陰あれば必ず陽あり」との問答を経て天帝ようやく古意角の願いを入れ女神の姑依玉(こいたま)の共を認めた。 古意角・姑依玉の両神は、豪勇の盛加神(もりかのかみ)を始めとした八十神百神(やそかむももかむ)を連れて天の夜虹橋を渡り七色の綾雲に乗って地上に降った。彼らは漲水天久崎(ぴゃるみずあめくざき)の地(漲水御嶽の東側にあった岬、現在は埋め立てられている)に宮居を定め、宗達(むにだる)・嘉玉(かだま)の男女児が生まれた。また島は赤土ばかりであったので天帝が再度黒土を下し、宮古島は五穀が稔るようになった。 十幾年かが過ぎ宗達・嘉玉が大きくなった頃、天帝は葉を身にまとった木装神(きそうのかみ)という男神、青草を身にまとった草装神(ふさそうのかみ)なる女神を下した。それぞれ宗達・嘉玉の夫婦となり、東地・西地に住むがこの地は現在の東仲宗根・西仲宗根という。宗達夫婦は世直真主(たよなおしのまぬす)なる男児を、嘉玉夫婦は素意麻娘(そいまらつかさ)なる女児を産んだ。のちこの二神が夫婦となり子孫が栄えるが宮古島民の祖となったと云う。 この伝説が、はじめて記述されたのは18世紀に書かれた『宮古島記事仕次』と言う宮古島の伝説をまとめた本である。 宮古上布一反織るのに2ヶ月以上かかる上布の最高級品。「東の越後、西の宮古」と呼ばれる日本を代表する織物。国の重要無形文化財。 16世紀に、稲石刀自(いないしとぅじ)が、宮古上布を完成させたと伝えられている[3]。稲石は、上地与人迎立氏の娘として産まれ、ムアテガーラという人物に嫁ぐ。1583年にこのムアテガーラが、琉球王国から明帝国(現在の中国)への進貢船に乗り組んだ。航海の途中に進貢船は嵐にあい、激しい波と風の影響で船の舵を操る綱が切れてしまった。ムアテガーラは、嵐の中海へ飛び込みこの船の舵を操る綱を取り替えることに成功し、進貢舟は無事に王都・首里へ帰り着くことができた。時の琉球国王・尚永王は、この功績を讃え、褒美として彼に下地の頭(下地首里大屋子・シムジスイウフヤク)の位を与え、洲鎌与人(与人は、日本の鎌倉時代の地頭に相当する役職・村長)に任命した。以後、平民より士族に出世したムアテガーラは、下地真栄(しもじしんえい)と呼ばれるようになった。この夫の出世を大変喜んだ稲石は、琉球国王への返礼として「綾錆布(あやさびふ)」という銘の細やかな麻織物を献上する。この細やかな麻織物と同じ技術で織り上げた織物は「宮古上布」と呼ばれるようになる。以後宮古上布は、二十数年間琉球王府へ献上された。 ちなみに、16世紀当時の宮古島では、織物が盛んで麻織物だけではなく絹織物・綿織物など様々な種類の織物が存在したようであるが、現在には伝わってはいない。琉球王府から明帝国への献上品として、現在、宮古島産と考えられる少しの織物が中国の故宮博物館に残されているようである。 1609年の慶長の役での薩摩藩による琉球王国侵略の後、人頭税として「宮古上布」は課税されるようになった。琉球王府は、各字(村)ごとに村番所を設置し、公の宮古上布の工房としてブンミャー(宮古島の方言では、ブー(糸)・ンミ(績ぐ)・ヤー(屋・(建物))糸績屋)と呼ばれる施設を設け、その村から手先の器用な女性を5、6名選び出し、その場所で琉球王府への貢租として上布を織らされた。 1903年に宮古島にて地租改正が行われ、租税が上布による物納ではなくなると、日本全国向けの商品として生産されるようになった。大正時代には大島紬の技術も高機等の導入され、この時代に宮古上布は歴代で最高の技術を誇った。 昭和16年から20年まで、太平洋戦争・沖縄戦が行われ、その後沖縄の施政権がアメリカ軍に移行すると、日本全国へ向けての商品流通は禁じられた。その為産業としての宮古上布は廃れた。 アヤグ(綾語)とクイチャー(声合)アヤグ若しくはアーグとは、宮古方言を用いた詩歌のことである。宮古島だけのものではないので宮古列島#アヤゴ(アヤグ)も参照のこと。 クイチャーとは、クイチャーアーグの省略のことである。標準語に直訳すると、「アヤグの声に(クイ)合わせ(チャー)」という意味である。アーグ(歌)に合わせた踊りのことで、踊られる地域若しくは、歌の内容によって様々な振り付けがある。 オトーリ(御通り)車座になって泡盛を飲む酒宴での流行。参加者で「親」となるものが口上を述べた後、隣の参加者に自分が飲み使用したのと同じ杯に酒を注ぐ、注がれたものはその杯を飲み干す。それが、一巡すると「親」の隣の参加者が、新しい「親」となり、同じように口上を述べたあと、隣の参加者へと杯が続いていく。 起源は、16世紀頃に琉球王国の領地内で流行した中国式の乾杯である。その当時は、酒宴の開催者が来賓に酒を振る舞うために行っていたらしい。琉球王府時代、穀物の生産量が少なかったので、泡盛は首里でのみ製造を許可されていたため、庶民には非常に貴重品であった。そのため、量の少ない泡盛を酒宴の参加者に均等に分けるために行われた。 この16世紀頃の流行が、御嶽での祭祀の中に取り入れられ現代まで残ったと考えられる。この流行を起源とした風習は、宮古島の中でも限られた地域でのみ見られた。類似の風習が奄美諸島与論島にも残っており、与論献奉(よろんけんぽう)と呼ばれている。近年になってから、泡盛の酒造メーカーが、泡盛の消費量を向上させるための宣伝で、居酒屋等でも行われるようになり全国に知れ渡った。 宮古地方には、泡盛のトップメーカー「菊の露」や「多良川」など全国的にも知名度の高い代表的酒蔵が多い。 御嶽への信仰御嶽は、「うたき」又は「おたけ」と発音する。宮古島では各村々によって「う」の発音が違うため両方の発音が存在する。 宮古群島には、約900近い御嶽が存在している。古くから信仰の対象として人々が祭祀を行う聖地は存在していた様であり、それらの聖地は様々な名称で呼ばれていたようである。 しかし、15・6世紀に琉球王国の支配が強固になり、琉球王国領内の土着の聖地を御嶽 (沖縄)と名付け体系化し王家(向氏)と関連づけ、神女制度を整えた。御嶽とは、琉球の聖地で他府県の神社に相当する。しかし、神社とは全く異なった祭祀儀礼を行う。祭祀集団は地縁や血縁で組織され、御嶽の中へは、祭祀を行う時以外入ってはいけないとされている。一般の人々も、神社でそうするようには参拝を行わない。ただし、明治時代から昭和の初期に地域の文化を否定し、日本全国を均一化しようとした運動があり、そのなかで神社化された御嶽は例外となっている。 御嶽への信仰は、「生命が自然界と人間社会を循環している」と思想に基づくものである。そのため、御嶽の領域内に生えている植物を切ってはならないと言うタブーが存在し、そのため広い領域を持った御嶽の周辺には御嶽林(うたきりん)と呼ばれる植生が生育していることがある。各々の御嶽にはさまざまな神々が祭られている。島の創造神・精霊・村の守護神・歴史上の偉人・氏神などである。なお、「島尻のパーントゥ」で有名な、「パーントゥ・プナハ」も神々がパーントゥに姿を変えて、元(ムトゥ・氏神を祭る家)の祭礼に現れるというものである(下記#外部リンクのサイトも参照)。 御嶽への信仰が成り立っていた条件は、琉球王府時代にその人物が所属する村(字)内での結婚しか認められなかったこと及び住居の移動が禁止されていたことによって、より強固な祭祀集団が結成できたことと「御嶽の中には入ってはいけない」という強力なタブーが存在してきたことにある。近年は、社会的な状況が変わりこれらの条件が無くなってしまい、御嶽への信仰もかつてのようには盛んではない。 芋の伝来1594年に長眞氏旨屋(ちょうしんうじしや・琉球王国の官吏であり、後の役職は砂川親雲上)もしくは、ウプザ・ガーラ(標準語に直訳すれば・大座のカシラ)(字松原出身の船頭)という人物が、沖縄本島より宮古島への航海中嵐に遭い、明・福州(福建省)まで漂流し、1597年にそこから金藷という品種の甘藷(サツマイモ)を持ち帰ったという伝承がある。真実であれば、宮古島が現在の日本国の領域内(歴史上、宮古島が日本領となるのは、1609年・薩摩藩の侵略以後)で最も早く甘藷が伝来した場所になる。 これは、沖縄本島読谷村に野国総監が、甘藷を伝えたのより7年も早い。109年後の1706年に宮古島・蔵元より琉球王府に報告された『御嶽由来記』という書物に記されている。しかし、『御嶽由来記』は、宮古島の神話や伝説を記述した本であり、明国・福州にルソンより甘藷が伝来したのは、旨屋が福建省に漂着したのと同じ1594年のことであるから、その真実性を疑問視されている。またこの甘藷が、宮古島を経由して他の地域へ伝わったということは、伝わっていない。 ちなみに、長眞氏旨屋(字松原・字久貝では、ウプザ・ガーラ)に対して宮古島の人々は、ンムヌシュウ(宮古方言)(芋の主・甘藷神)として、芋報礼(ンムプーリ)という感謝祭を昭和の中ごろまで捧げていた。しかし、宮古島でのさつまいもの栽培が廃れると次第にこのンムプーリも盛大には行われなくなった。 観光名所・旧跡・観光スポット
ドイツ商船遭難事件1873年7月9日、宮古島南岸、上野村沖でドイツ商船R・J・ロベルトソン号(エドヴァルド・ヘルンツハイム船長)が台風のため座礁した。この船は中国の福建で茶を積み、オーストラリアのアデレードへ向かう途中だった。 船はマスト2本が折れ、船員2名が死亡、ボート2艘も流失し干潟に乗り上げた状態で座礁。近海を航行していた英国船が座礁を目撃し、小船を出して救出しようとしたが高波のため断念した。ほぼ同じ時期に島の役人も座礁を発見し、船を出そうとしたものの夜間で高波のため断念、島民は沿岸にかがり火を焚いて、座礁船に残る乗組員を励まし続けた。 翌朝、まだ高い波の中、小船2艘を出し、船に残っていた1艘とあわせた3艘のボートに生存者8名(ドイツ人6名、うち女性1名、中国人2名)を救出した。 役人は役場を宿泊所として提供、自らはその周りに仮小屋を立ててすごした。当時の島民の主食はキビだったが、遭難者には米や鶏肉を与え、看護しつづけた。 34日間を宮古島ですごしたあと、彼らは台湾の基隆へわたり、英国の汽船で中国へ、中国から祖国ドイツに帰ることができた。船長がこの一連の遭難話を「ドイツ商船 R.Jロベルトソン号宮古島漂着記」と題して新聞に公表したところ、大反響を呼び、時の皇帝ヴィルヘルム1世が知るところとなった。その博愛精神に感動した皇帝は3年後の1876年、軍艦チクローブ号を派遣、皇帝の誕生日でもある3月22日に感謝の石碑を建立した。 1936年には、外務省や日独親善団体・宮古教育部会の協力のもと、遭難現場近くの宮国ンナト浜に「獨逸商船遭難の地」の碑が建てられた。また、翌1937年には、文部省が全国から募集した「知らせたい美しい話」で、この史実が1等に選ばれ、小学校の修身教科書に載り、「博愛」という題で全国の子どもたちに紹介されることになった。 1996年に遭難地近くに「うえのドイツ文化村」という施設が建設されて、2000年の主要国首脳会議が沖縄で開催されたおり、ゲアハルト・シュレーダードイツ首相が親善訪問した。 脚注
外部リンク
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