密教

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密教みっきょう)とは、秘密仏教ひみつぶっきょう)の略称[1]。密教徒の用語では大乗(mahāyāna)、小乗(hīnayāna)に対して「金剛乗」(vajrayāna)ともいう。仏教を自称しているが、密教が仏教に含まれるかどうかは学者の間でも見解が分かれる。[2] 一般の大乗仏教(顕教)が民衆に向かい広く教義を言葉や文字で説くに対し、密教は極めて神秘主義的・象徴主義的な教義を教団内部の師資相承によって伝持する点に特徴がある。

インド密教を継承したチベット仏教がかつて「ラマ教」と俗称されたのは、師資相承における「師(ラマ)」に絶対的に帰依する特徴を捉えたものである。師が弟子に対して教義を完全に相承したことを証する儀式を伝法灌頂といい、教えが余すところなく伝えられたことを称して「瀉瓶の如し(瓶から瓶へ水を漏らさず移しかえたようだ)」という。

目次

密教成立の流れ

密教成立の背景には、インド仏教後期においてヒンドゥー教の隆盛によって仏教が圧迫された社会情勢がある。ヒンドゥー教の要素を仏教に取り込むことで、インド仏教の再興を図ったのが密教である。しかし結果的には、インド仏教の密教化はヒンドゥー教の隆盛とインド仏教の衰退を変えられなかった。やがて、西アジアからのイスラム勢力のインド北部から侵攻してきたイスラム教徒政権(デリー・スルタン朝)とインド南部のヒンドゥー教徒政権との政治・外交上の挟撃に遭う。イスラム教徒から偶像崇拝や呪術要素を徹底攻撃されて、インドの密教は最後の段階のインド仏教として歴史的に消滅に追い込まれる。

初期密教

呪術的な要素が仏教に取り入れられた段階で形成されていった初期密教(雑密)は、特に体系化されたものではなく、祭祀宗教であるバラモン教マントラに影響を受けて各仏尊の真言陀羅尼を唱えることで現世利益を心願成就するものであった。密教経典があった訳ではなく、各種の大乗経典に咒や陀羅尼が説かれていた。

中期密教

密教は新興のヒンドゥー教に対抗できるように、本格的な仏教として理論体系化が試みられて中期密教が誕生した。中期密教では釈尊(Bhagavān)が説法する形式をとる大乗経典とは異なって、その別名を大日如来と呼ぶ大毘盧遮那仏(Mahāvairocana)が説法する形で密教経典を編纂してゆく。『大日経』や『初会金剛頂経』(Sarvatathāgatatattvasaṃgraha)、またその註釈書が成立すると、多様な仏尊を擁する密教の世界観を示す曼荼羅が誕生し、一切如来(大日如来を中心とした五仏:五智如来)からあらゆる諸尊が生み出されるという形で、密教における仏尊の階層化・体系化が進んでいった。

中期密教は僧侶向けに複雑化した仏教体系となった一方で、かえってインドの大衆層への普及・浸透ができず、日常祭祀や民間信仰に重点をおいた大衆重視のヒンドゥー教の隆盛・拡大という潮流を結果的には変えられなかった[3]。そのため、インドでのヒンドゥー教の隆盛に対抗するため、シヴァを倒す降三世明王ガネーシャを踏むマハーカーラ(大黒天)・軍荼利明王をはじめとして仏道修行の保護と怨敵降伏を祈願する憤怒尊や護法尊が登場した。

後期密教

中期密教ではヒンドゥー教の隆盛に対抗できなくなると、理論より実践を重視した後期密教が誕生した。後期密教では仏性の原理の追求が図られた。それに伴って法身普賢金剛薩埵金剛総持が最勝本初仏として最も尊崇されることになった。

また、ヒンドゥー教シャークタ派のタントラやシャクティ(性力)信仰から影響を受け始めて、男性原理(精神・智・方便・金剛界)と女性原理(肉体・感・般若・胎蔵界)との合体(性交)を修行する無上瑜伽(性的ヨガ)も後期密教の特徴であり、男尊(男性原理)と女尊(女性原理)が性交する歓喜仏も多数登場した。ヨガ・タントラの修行方法が探究されるにつれて、下半身のチャクラからプラーナを頭頂に導くことが最上とされ、性交がその最も効果的な方法とされた。しかし男性僧侶が在家女性信者に我が身を捧げる無上の供養として性交を強制し、破戒にもかかわらず男性僧侶が在家女性信者に性交を実践するなど性道徳が荒廃したため、仏教徒の間には後期密教を離れて戒律を重視する部派仏教上座部仏教)への回帰もみられた。また僧侶の性交に対する批判を受けて、無上瑜伽も性交の実施ではなく性交の観想へと移行する動きもあった。

さらには、当時の政治社会情勢からイスラム勢力の侵攻によるインド仏教の崩壊が予見されていたため、最後の密教経典である時輪タントラ(カーラ・チャクラ)の中でイスラムの隆盛とインド仏教の崩壊、インド仏教復興迄の期間(末法時代)は密教によってのみ往来が可能とされる秘密の仏教国土・理想郷シャンバラの概念、シャンバラの第32代の王となるルドラ・チャクリン(転輪聖王)、ルドラ・チャクリンによる侵略者(イスラム教徒)への反撃、ルドラ・チャクリンが最終戦争での王とその支持者を破壊する予言、そして未来におけるインド仏教の復興、地上における秩序の回復、世界の調和と平和の到来、等が説かれた。

インド北部におけるイスラム勢力の侵攻・破壊活動によってインドでは密教を含む仏教は途絶したが、さらに発展した後期密教の体系はチベット仏教の中に見ることができる。

日本の密教

日本に密教が初めて紹介されたのは、唐から帰国した最澄(伝教大師)によるものであった。当時の皇族や貴族は、最澄が本格的に修学した天台教学よりも、むしろ現世利益も重視する密教、あるいは来世での極楽浄土への生まれ変わりを約束する浄土教念仏)に関心を寄せた。しかし、天台教学が主であった最澄は密教を本格的に修学していた訳ではなかったので、中国密教の拠点であった唐の青龍寺で本格的に修学した空海(弘法大師)円行円仁(慈覚大師)恵運円珍(智証大師)宗叡によって、密教がより本格的に日本に紹介された。

日本の伝統的な宗派としては、空海が中国(唐)の青龍寺恵果に受法して請来し、真言密教として体系付けた真言宗東密即身成仏鎮護国家を二大テーゼとしている)と、最澄によって創始され、円仁、円珍、安然らによって完成された日本天台宗台密とも呼ばれる)が密教に分類される。真言宗が密教専修であるのに対し、天台宗は天台・密教・戒律・禅の四宗相承である点が異なっている。東密とは東寺(教王護国寺)の密教、台密は天台密教、の意味である。


体系的に請来された東密、台密を純密というのに対し、純密以前に断片的に請来され信仰された密教を雑密という。

日本の密教は霊山を神聖視する在来の山岳信仰とも結びつき、修験道など後の神仏習合の主体ともなった。各地の寺院権現に伝わる山岳曼荼羅には両方の要素や浄土信仰の影響が認められる。

中国の密教

現代中国では、唐代に盛んだった中国の密教(中期密教)を唐密宗、現代まで続くチベット仏教における密教を西蔵密宗と呼んでいる。日本の空海円仁円珍が入唐して求法したのは、唐密宗である。唐密宗は唐代以降はや念仏(浄土教)に押されて衰退・途絶した。現在の中国では、上海市静安寺にみられるように、日本の真言宗(東密)との交流を通じて唐密宗の復興を試みる動きもあるもののマイナーな動向である。西蔵密宗はチベット自治区や中国北部等を中心に現在も信仰が続いている。

中期密教である唐密宗が中国で衰退・途絶したのは、現世利益や呪術の面ではライバルであった道教が好まれたためと考えられている。また儒教の影響も強かった中国では、チベットネパールモンゴルで盛んだった後期密教は、タントラが性道徳に反するとして導入されなかったというのが通説である。

インド錬金術に関する仮説

なお、インドの錬金術が密教となり、密教は錬金術そのものであったとの仮説[4]があるが、一般的な見解ではないし、また仏教学の研究でも検証されていない。

その他の用法

転じて、カバラブードゥー教など、神秘主義・象徴主義的な教義を持つ仏教以外の宗教宗派も、密教と呼ばれる場合がある。密儀宗教みつぎしゅうきょう)とも言う。[要出典]

参考文献

  1. ^ 天台寺門宗のHP解説
  2. ^ 末木文美士『日本仏教史―思想史としてのアプローチ―』
  3. ^ 密教という潮流にあっても、当時のインド仏教界では伝統的な部派仏教の1つである正量部の勢力が強かったという見解もある。
  4. ^ 密教の秘密の扉を開く―アーユルヴェーダの秘鍵 佐藤 任 ISBN 978-4915497254

関連項目

外部リンク

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