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崇峻天皇(すしゅんてんのう、生年不明 - 崇峻天皇5年11月3日(ユリウス暦592年12月12日))は、第32代天皇(在位:用明天皇2年8月2日(587年9月9日) - 崇峻天皇5年11月3日(592年12月12日))。
系譜欽明天皇の第12皇子。母は蘇我稲目の女・小姉君(おあねのきみ)で、敏達天皇、用明天皇、推古天皇の異母弟にあたる。 即位大臣(おおおみ)の蘇我馬子によって推薦され即位した。一方大連(おおむらじ)の物部守屋は、穴穂部皇子(あなほべのみこ)を即位させようとはかるが、穴穂部皇子は蘇我馬子によって逆に殺されてしまう。その後、蘇我馬子は、物部守屋を滅ぼし、これ以降物部氏は没落してしまう。 仏教興隆物部氏の没落によって欽明天皇以来の崇仏廃仏論争に決着が付き、法興寺(飛鳥寺)や四天王寺などの、造寺事業を積極的に行った。しかし、即位したあとでも政治の実権は常に馬子が握っており、次第に不満を感じるようになった。 天皇暗殺592年10月4日に、猪を献上する者があった。天皇は笄刀(こうがい)を抜いてその猪の目を刺し、「いつかこの猪の首を斬るように、自分が憎いと思っている者を斬りたいものだ」と発言。そのことを聞きつけた馬子が「天皇は自分を嫌っている」と警戒し、部下に暗殺命令を下した。そして東国の調(ちょう)を進めると偽って天皇を儀式に臨席させ、その席で東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)の手により暗殺した。臣下により天皇が殺害されたのは、確定している例では唯一である(他には、毒殺の疑いのある孝明天皇の例が未確定である。安康天皇は同じ皇族によって殺害されているが、史実性が低いので除外されることが多い)。死亡した当日に葬ったことと、陵地・陵戸がないことは、他に例が無い。 陵墓『日本書紀』の崇峻天皇の五年十一月条に「馬子宿禰、群臣を詐めて曰はく、『今日、東国の調(ちょう)を進る。』という。乃ち東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)をして、天皇を弑せまつらしむ。是の日に、天皇を倉梯岡(くらはし)陵に葬りまつる。」と出ている。 『延喜式』に「無陵地幷無戸」とある。 現在、崇峻陵は、倉梯柴垣宮の旧地と伝えられてきた小字「天皇屋敷」に桜井市倉橋にある。同地に、崇峻天皇の位牌を祀る金福寺があったことから、陵地として1889年(明治22年)に決定したという。 1876年(明治9年)、治定、改修あり。 ただし根拠に乏しく、近年では、桜井市倉橋にある巨大方墳、赤坂天王山古墳を崇峻陵とする森浩一の見解が有力視されるようになっている。同古墳は6世紀末から7世紀初頭に築造された方墳で、東西44.5m、南北42.2m、高さ約9.1m、全長17mの横穴式石室を持つ[1]。 また、斑鳩町法隆寺にある藤ノ木古墳の被葬者を崇峻天皇とする説も出されている。 在位年と西暦との対照表関連項目脚注
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