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皇太子妃雅子(こうたいしひ まさこ、1963年12月9日 - )は、日本の皇族で、皇太子徳仁親王の妃。徳仁親王妃雅子。勲等は勲一等。身位は皇太子妃・親王妃。皇室典範における敬称は殿下。お印はハマナス。 結婚以前の旧名は、小和田 雅子(おわだ まさこ)。学位はハーバード大学経済学士(Bachelor of Economics)。
略歴少女時代昭和38年(1963年)12月9日、外務省職員の小和田恆・優美子夫妻の長女として東京都港区虎ノ門病院にて誕生。父の仕事の関係から、雅子は幼少期をスイス・ソビエト連邦・アメリカ合衆国などで過ごす。 昭和46年(1971年)3月、目黒区立原町小学校1年に編入し、同年5月に、新宿区立富久小学校2年に編入。翌年の昭和47年(1972年)4月から、田園調布雙葉小学校に編入。その後、同中学校を経て同高校に進学するも、父の仕事の関係で、ボストンへ引っ越す。昭和54年(1979年)よりベルモントハイスクールへ通う。昭和56年(1981年)、同ハイスクール卒業。 昭和60年(1985年)6月、ハーバード大学経済学部卒業。在学中は、フランス語のサークルで精力的に活動する。帰国後の、昭和61年(1986年)4月に東京大学法学部に外部学士入学するが、約40倍の倍率を突破して外務公務員採用I種試験に合格し、外務省入省が決まったため、翌昭和62年(1987年)に東京大学を中退し、外務省へ入省。経済局国際機関第二課に配属された。 また、東大在学中の昭和61年(1986年)、訪日していたスペインのエレナ王女の歓迎パーティにて、浩宮徳仁親王(当時)と知り合った。また、この頃、女性の2世外交官はまだ珍しく、雅子のことがいくつかのメディアで紹介された[1]。 昭和63年(1988年)から平成2年(1990年)まで外務省の研修留学として、オックスフォード大学ベリオール・カレッジに留学。ただし、修士号は取得できていない。 帰国後より、皇太子となった徳仁親王のお妃候補として報道される。徳仁親王との交際では鴨場のデートなどが話題となった。 皇太子妃時代
成婚を記念して発行された硬貨
平成5年(1993年)1月19日、皇室会議にて徳仁親王妃に内定。同日記者会見を行なう。同年2月をもって外務省を退職。同年4月12日の納采の儀を経て、同年6月9日に結婚の儀が行なわれた。成婚パレードには、沿道に19万人が集まり、テレビ中継の最高視聴率は79.9%を記録した[2]。 平成11年(1999年)12月30日に懐妊していたものの稽留流産の手術を受けたと発表された。12月上旬に海外公務が行われた[3]こと、懐妊が早期から大々的に報道されたことが原因とされるが、特に過度の報道に対して徳仁親王は遺憾の意を表明した[4]。平成13年(2001年)4月に2度目の懐妊が発表され、同年12月1日に長女の敬宮愛子内親王が誕生。結婚から8年余りでの第一子誕生だったが、その後懐妊の兆候は無く、男児出産のプレッシャーがかかったと言われる。その背景には、平成18年(2006年)の悠仁親王の誕生まで今上天皇の孫世代に男児がおらず、深刻な皇位継承問題が生じていたことがあげられる。 平成16年(2004年)5月、徳仁親王が訪欧を前にした記者会見で「雅子のキャリアや、そのことに基づいた雅子の人格を否定するような動きがあったことも事実です」と発言[1]。海外育ちで国際派と見られていた雅子妃と、伝統と慣習に厳格な宮内庁との間で不和があることをうかがわせた。この発言は人格否定発言と呼ばれ、大きな反響を呼んだ。 平成12年(2000年)頃より、体調不良による公務や祭祀への欠席が目立つようになり、平成16年(2004年)7月に、適応障害で長期間静養している事実が公表された。平成20年(2008年)前半までは、東宮御所における接見を除けば出席する公務は少なかったが、平成21年(2009年)1月2日の新年恒例の一般参賀に5回とも全て出席し、7日の皇居・宮中三殿の皇霊殿で行われる「昭和天皇二十年式年祭の儀・皇霊殿の儀」に、今上天皇・皇后の名代として夫である皇太子とともに拝礼した。 年譜
家系
発言
その他皇室典範第23条では、敬称を「殿下」とされているが、実際には「雅子妃殿下」もしくは「妃殿下」と呼ばれる。 報道等では「雅子妃」や「皇太子妃雅子さま」と称されたり、単に「雅子さま」とされることもある。 脚注
関連項目外部リンク
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