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松平 昌親(まつだいら まさちか)は、越前福井藩の第5代・第7代藩主[1] 。
生涯第3代藩主・松平昌親として寛永17年(1640年)4月11日生まれ。幼名は福松、辰之助。初名は昌明。正保2年(1645年)、兄の松平光通から2万5000石を分与されて、吉江藩を立藩した。延宝2年(1674年)、兄で第4代藩主であった光通が自殺した。光通は自殺する直前、家督は昌親に譲るようにという遺言書を残していたが、これが問題となる。実は光通には松平直堅という庶子がいたし、昌親にも兄にあたる松平昌勝がいたのである。このため、家督争いが起こった。順序からいけば直堅が後を継ぐはずであるが、この直堅は光通時代からその存在が問題視されていたし、光通の遺言があったからである。しかし藩士50人ほどが前藩主の息子であるということで、直堅を擁立しようと画策したのである。これに対して家老の芦田図書は、亡き光通の遺書を幕府に提出して、昌親の家督相続を望んだ。幕府はこれを認め、第5代藩主には昌親が就任することとなったのである。このとき、吉江藩は廃藩となり、その所領は福井藩に併合された。 しかし藩内では昌親の家督相続に不満を抱く者も少なくなかった。このため昌親は在位2年後の延宝4年(1676年)7月21日、家督を兄・昌勝の長男・松平綱昌に譲って隠居したのである。 第5代藩主・松平吉品として昌親に家督を譲られたことで第6代藩主となった綱昌は、発狂して家臣を殺すようになった。これを幕府に咎められて、福井藩は改易・廃藩とされるところだった。しかし福井藩は結城秀康以来の名門であるということから特別の配慮を受けて、前藩主であった昌親が所領削減の上での25万石を相続することで、家督を継いで藩主に再任することが認められたのである。このとき、昌親は名を昌明、そして後に吉品と改名している。そして吉品は綱昌時代に乱れた藩政の再建を目指した。 まず、2000人近い家臣のリストラを断行し、さらに家老クラスから下級武士まで家禄を減らした。また、藩札を新たに発行して法令の整備などにも努めた。藩の格式の整備にも努めた。 吉品には嗣子が無かったため、はじめは毛利綱広の次男・松平昌方を養子として家督を譲ろうとしたが、家臣団の反対により昌方を離別し、兄の昌勝の六男・松平吉邦を養子として宝永7年(1710年)7月5日、家督を譲って隠居した。正徳元年(1711年)9月12日、72歳で死去した。法名は探源院殿順譽和祥龍山大居士。 なお、福居と呼ばれていた名を福井と改名したのは、吉品である。 脚注
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