織田寛広

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織田 寛広(おだ とおひろ/ひろひろ、織田寛廣、生没年不詳)は、戦国時代武将。父は織田広近織田敏広の養子。尾張上四郡の守護代官位兵庫助、伊勢守。幼名は千代夜叉丸。尾張岩倉城主。

生涯

木ノ下城(後の犬山城)主織田広近の子で、伯父の尾張上四郡の守護代で岩倉城主織田敏広の養子となり、主君尾張国守護斯波義寛の一字「寛」の偏諱を受け、寛広と名乗ったとされる。敏広が病死(もしくは戦死)したため、家督を継ぎ、尾張岩倉城主となる。

中島郡を除く尾張上四郡に加え、海西郡山田郡の大半に勢力を築いた。明応3年(1494年)、土岐氏の家督争いである船田合戦では敵対する尾張下四郡の守護代「織田大和守家」(清洲織田家)の清洲城織田敏定が石丸方へ付いたため、寛広は養父の代に斎藤氏と縁戚関係を結んだこともあり、斎藤方へ付いた。明応4年(1495年6月、斎藤方の援軍として石丸方の敏定と戦い、敏定を破る。明応4年(1495年)、兄弟の織田寛近(津田武永)とともに石丸利光を攻めた。翌年の明応5年(1496年)、岳父妙純の進言で、「大和守家」の敏定の跡を継いだ織田寛村と一時的に和睦した。しかし、再度、敵対したという(『大乗院寺社雑事記』に「尾帳(張)は又両人取合う」とある)。同年5月10日、再び、斎藤方へ援軍を送り、石丸方の居城・城田寺城を裏側を囲む。合戦は石丸方が負け、「大和守家」の惨敗に終わるが、同年12月7日、妙純が六角征伐で戦死したため、斎藤氏の後ろ盾を失って、「織田伊勢守家」(岩倉織田家)は衰退して、それ以降、寛広の名は文献から途絶えた。跡を敏広の実子広高が継ぎ、その後、「大和守家」出身とされる織田信安が守護代として台頭する。

先代:
織田敏広
織田伊勢守家(織田宗家)
1481 - 1496?
次代:
織田広高

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