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王朝としての蜀(221年 - 263年)は、中山靖王劉勝の子孫とされている劉備によって建国された。 蜀は魏、呉と共に中国三国時代を形成した一国である。巴蜀(現在の四川省・湖北省一帯)を領土とし、成都を都に定めた。実際には魏の文帝曹丕が後漢を滅ぼして即位した時に、漢の正統を継ぐものとしたため漢が正式な国号である。蜀或いは蜀漢という呼称は後世の人々が統一王朝であった漢との区別のため便宜上つけたものである。また、季漢(季は末っ子の意味)と称することもあった。 蜀(蜀漢)は、多くの『三国志演義』関連の創作において主人公格である劉備が建国したことや、群臣に諸葛亮・関羽・張飛・趙雲・馬超などの人気の高い武将が集まっていることから、特別視されることも多いが、実際には三国の中でも最も弱い勢力であった。 219年、劉備は漢中を守備している夏侯淵を討ち取り(定軍山の戦い)、魏王の曹操(魏の初代皇帝となった曹丕の父)から漢中郡を奪い、漢中王になった。この時、劉備は益州ほとんど全部と荊州の半分を領有し、(後に呉の初代皇帝となった)孫権以上の大勢力であった。だが、劉備軍の関羽が曹操領に侵攻している時、曹操と同盟を結んだ孫権に荊州を攻撃され、荊州を失い、関羽が捕らえられ処刑された。 221年、劉備は蜀の皇帝となった。(220年、曹丕が後漢を廃し、魏国を正式に建国し皇帝となったことを、認めない立場から) 劉備は、諸葛亮らに蜀の法律である蜀科を制定させ、法制度を充実させた。また、劉巴の提案に従い、新しい貨幣を作り、貨幣制度を整備した。 益州は鉱物資源が豊富で、塩を産出した。 劉備は塩と鉄の専売による利益を計り塩府校尉(司塩校尉)を設置し、塩と鉄の専売により国庫の収入を大幅に増加させた。 222年、荊州奪還と関羽の仇討ちのため呉を攻めるも大敗(夷陵の戦い)。 223年、劉備は死去した。後に昭烈帝と諡された。 劉備の亡き後は子の劉禅が後を継ぎ諸葛亮が丞相として政務を執った。益州南部で雍闓・高定らが反乱を起こしたが、諸葛亮・李恢らは225年に益州南部四郡を征討して反乱を平定し、南方の異民族を信服させた。また、諸葛亮は魏に対しては、劉備の遺志を継ぎ北伐を敢行し、武都・陰平の両郡を制圧した。この時に書かれた『出師の表』は、当時から現代に至るまで非常に高く評価されている。 234年、諸葛亮は五丈原において病に倒れ、陣中で死去し、中原への版図拡大の夢は潰えた。その後は蒋琬らが政務を担当、大々的な北伐も陰を潜め、内政の充実に努めることとなるが、費禕の死の前後から徐々に衰退していく。 費禕の死後、姜維や陳祗らが国政を執ったが、255年に北伐で魏に大勝したものの、相次ぐ北伐で蜀は疲弊した。258年に宦官の黄皓が政治権力を握り、黄皓を重用した劉禅の悪政により、宮中は乱れ国力は大いに衰退した。 そして263年、終に魏が侵攻を開始。姜維らは剣閣で魏軍に抵抗したが、対峙している間に別働隊が迂回して蜀の地へ進入、綿竹で呉の援軍が到着する前に諸葛瞻が討ち取られた。この知らせを聞いた劉禅は魏軍が成都に迫る前に降伏、蜀は三国の中で最も早く滅亡した(蜀漢滅亡)。その後、成都で起こった反乱で皇太子の劉璿が殺害されるなどの混乱があったものの、劉禅は魏・晋両国で「安楽公」に封じられて天寿を全うした。 陳寿によれば、蜀は史官を(ほとんどの期間)置いておらず、魏や呉に比べ蜀の歴史は後世にあまり伝わらなかったようである。 歴代皇帝
なお、先主・後主という名は、『三国志』が魏を正統とし、蜀を正規の皇帝と認めない立場としての呼び名である。呉の皇帝は「孫権」のように呼び捨て扱いであるが、これは『三国志』著者の陳寿が蜀出身者であるため扱いに差が出たと言われる。 |
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